昭和45年10月31日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
「放って置く様な気になって、信心してやれ」と。放って置く様な心ではないのですね。「放って置く様な心になって信心してやれ」と。放って置く様な心その事でも大変、言わば難しい事ですよね。最愛の子供が病気をするというのですから。それを放って置く様な気持ちになる事でも大変難しい、うん「信心してやれ」と「そういう心で信心してやれ」と。そこにおかげが受けられると言う事になってくる。
お取次を頂いてお願いをしておるから、おかげを頂くと思うたりおかげを頂くだろうと言う様な心の状態、それはまあ有難い事ではありますけれども、それではね所謂おかげにならんと、ね。あの不思議にお取次を頂きますと、安心というかねそんな気が致します。お取次を頂きますとお取次を願っとるだから金光様がお願いをして下さるのだからと、心に矢張りやれやれが、やれやれというかまあ安心に似た様な安心ですね言わば。
それでその「信心してやれ」と言う所に弾みが出ない。それはしかしそれだけでもそこに救いはありますよね、矢張り。有難い事なんですけれどね。それでは「信心してやれ」と仰る、そこん所がでけて、ね、おかげが受けられると言う事。やっぱりおかげを受ける為にはその為に信心してやらにゃいかん、ね。言うならその為に修行さして頂かにゃいけん、ね。私は思うのにそのその為に信心するとかその為に修行すると言う事によって、生まれて来る所の安心、ね。
今まで出来なかった事が子供の病気なら子供の病気と言う事によってです、ね、出来なかった事が出来る、言うならば改めようと思うておった事が思うておりながら出来なかった。これこそ是がおかげの受けられんがんだと思う様なものに取り組めるのはそういう時がチャンスなんです、ね。そういう例えば改まりなら改まると言う事に、取り組んでいわゆる「信心してやれ」というのは自分が改まって修行さして頂いて、と言う事なんです。それが私は「放って置く様な気になって信心してやれ」と。
そこから生まれてくる安心が、言うなら放って置く様な心であろうし、又はそういう気になって信心すると言う事がです、願う事になるのだとこう思います。ね。だから願う事にもならないというのはね、いかにまあ横着な考えかと言う事が分かります。お取次を頂いとるけん、ね、いつか何とかなるだろうと、と言わばそれがなら例えば放任した、ね、放って置く様な気と思うたら間違いです。
昨日は朝の御理解に頂くように「夜が明けたら元日と思うて、日が暮れたら大晦日と思うて」と言う様な御理解でしたね。その初めの所に「信心は日々の改まりが第一じゃ」とあります、ね。最後にしみじみ、ね、嬉しゅう暮らせば家庭に不和はないという御理解です、ね。まあ昨日は取り分けそう言う様な、本当にもう有難いと言う事なんですけれども、矢張り嬉しいという心。
いわゆる昨日はもう本当にあのう、休ませて頂くまでそう言う様な心の状態を頂きながら、おかげを頂いた。本当にまあ言うなら嬉しい一日であったと言う事です。それは成程あれを思うてもこれを思うても、おかげおかげの中にありますから、まあ有難い心も嬉しい心も湧いてくるので御座いますけれどもね。私昨夜の御祈念の後にこんなお話を皆さんに聞いてもろうた。
人間がこの幸せ幸福と言う事は、どう言う事かというと、勿論これは私が言う所の幸福というのは、信心によって生まれてくる、幸せだなというのがなからなければ、本当の幸せではないと、まあ断言いたしますいつもね。信心によって幸福を感じる幸福でなからなければそれは、いわゆる幸福の本質から言うても、私はほんな事じゃないとこう思う。ね、どういう状態の時になら人間が幸福かと。
昨日私はある事を、ある方のお取次をさして頂いておりましたら、こん大きな木を頂くんですよね。いわゆる大きな木ですから、まあ大きな心と言う事だとこう思う。木は心と、ね。成程大きな心の人は、その細い事にこせこせしませんから、本当にやっぱ心配あの人が心配する様な事でも、こうのんきにしておれれる。ね、小さい事にこだわらない。こせこせしない。所がねこれでは幸福ではない。
それからその大きな木がね、大きな一本の木になってこう、枝が一杯この次に栄えておる所を頂きましてね。その小さい枝に小鳥が来て止まった。そういうお知らせじゃった。ははあこういう時に人間が幸せだなと、私は小さい鳥をまあ幸福とこう思うとる、ね。あの青い鳥ですね。まあそれを青い鳥とこう思うた。
小さい小鳥だとははあ幸福というのはね、いわゆるその大きい心と小さい心がね、これに同居しておらなければならない。そういう意味で合楽の方はみんなあの、神経が非常に小さいですね。小さいいわゆる行き届いておられる。実に神経が微妙だ。これは私私が大体そうです。非常に神経が細い。ですからやっぱり昼より夜ようけ集まるという(笑)のでしょうか、ね。
ほらもう秋永先生なんか、ああもうよかよかちゅて言った様なタイプですけれども、実を言うたらもう実に神経が細いでしょうが。ね、例えば高橋さんなんかがまあ代表的な、方だと思いますよ。あんたは神経が細いそんなこっちゃでけん(笑)そう言いながら私自身も同じ事。ね、ですからあの合楽タイプとでも申しましょうか、そういうタイプの方がですね、信心によって大きな心を頂いた時に、初めてあの幸福と言う事が言えるのだと、ね。ひとつその大きな心を目指さなきゃいけません。ね、
同時に矢張り神経は細かに。もう自分ながらもう驚くほど神経をが細い。ですからもうその神様がもう言うなら小さい、もうささやかれる様な事でもぴしゃっと受け止めれる感じです、ね。昨日一日本当に嬉しゅう暮らせば家庭に不和はないと本当に、まあいつもおかげ頂いとるけれども、昨日はそういう朝は御理解頂いておったから、ひとしおね。私は日々この様に有難い、しかも嬉しい日々を過ごさして頂いておるなと思うて、愈々有難かったんですけどね。
うんその昨日一日の中に、様々な事がやっぱあっておるんです。中に昨日は小倉の富永さんがここに出て頂きまして、あのう幹三郎を医大に連れて行って下さいましたから、家内と同道で高橋さんがあちらへ送って下さいました。ほいで勿論先生がその間にもう。小倉から何回も電話かけて下さったりして、もう普通で言うなら4日も5日もかかるような、結果がしか分からない様な事でも、昨日もう昼ちょっと過ぎには帰って参りました。9時頃から参りました。
もう何もかにも非常にそのう親切にして頂いてね、富永先生の先輩、又は後輩の方ばっかりだそうですから、もう大変親切にして頂いたと言う事なんです。まあ言うならばどういうもの、大体聞かなくてもその分かっておる事ですけども、まあどういう結果になるだろうかと、大体うれしい心などとは、もう本当は裏腹じゃなからなければならん状態の中に私はありながら、矢張り嬉しい有難いというおかげを頂いておったと言う事なんです。帰って参りましたら、富永さんが幹三郎に言うておられるんです。
幹三郎ちゃんあのう病院に行ってもね。ひとつも怖くなかったでしょうっち。みんな家の先生の先輩の方又は後輩の方、とても立派なお医者さんだし、同時にとても親切で怖くなんかなかったでしょうちゅって、言うておられましたら、幹三郎が言いよりましたです。いや僕は怖かったっち(笑)もうとにかく初めて病院に行ったんですからね、生まれて。そして全部まああらゆる色んなそのレントゲンとか色々しなければならない。そのお医者さんが、して言われる事の中んでも。
まあ非常にそのまあ本当に、今までもこんなのをほうたらかしておいてから、もうそれこそここだと言う様な事も仰ったというらしいですね。もう僕は本当に怖かったっち、けれどもあの、行きがけにねお取次ぎを頂いた時に親先生が、今日は紫ムードでいけよと、紫と言う事は安心と言う事だから、安心ムードだぞと親先生が言われた事を思い出させて頂いたら、怖くなくなったちゅってから話しております、ね。
紫ムードだと。私あの人立ちが参り参ります時に来た時に、ね、お取次ぎさして頂いたら、もう壁が全部こう紫色のね、壁、あのいわゆる紫ムードの所を頂きましたから、それを私伝えておきました。幹三郎今日はもう安心して行けと、ね、安心ムードだぞと紫ムードだぞとそれを思うたら、心に安心が出来たと、怖くなくなったとこう言うております。私はねそれを聞かせて頂きながら、はあ本当に信心で言う、この安心というのはね、私はこれだなと思いました。
お互いの信心は日頃、平穏無事の時には信心さして頂いておるから、有難い事じゃあるとその、いかにも安心しておる様だけれどもその安心はです、ここで私が申します様に、放って置く様な気になってとこう言われるね。それだけを安心の様に思うておる。「信心してやれおかげが受けられる」と、その事によって信心その事によって修行、その事によって日頃頂けなかった心の癌が取り除かれると言う位な信心してやって初めて、生まれるのが安心なんだ。だからそれまでは怖うて怖うてたまらんのだと。ね、
教祖様の御教えの中にありますように、障子一重がままならぬ人の身なんだもの、ね。今日あって明日はない命かも分からないのだもの。そういう中にあってですね、言わば安閑として居られる筈がない、信心が分かれば分かる程です、障子一重がままならぬ人の身であると言う事が、自覚が出来てくればくる程です、不安で不安でたまらない。障子一重の向こうの事にはどう言う事が待ち受けておるか分からない。それが人間の本当の姿なんです。いやなからなければならない、ね。
障子一重人間の実相とでも申しましょうかね。障子一重がままならぬというのが人間の本当の姿なのだからと。それが分かったらです、もう障子一重向こうの事は不安でたまらんというのが人間です。それを安閑としておる事は、だから横着な心だと言う事になる。ね、あまりにのんきすぎると言う事になる。そこでですねそこで私共がその不安な心を神様に持っていく、不安な心が起こるから修行をする、神様に打ち向かう、ね。
幹三郎じゃないけども、僕は初めて病院に行って怖かったと、ね。とっても親切なお医者さんで、しかもあの様に親切にして下さるから、ひとつも怖い事なんかなかったでしょうという問いに対して、怖かったと幹三郎は言うております、ね。けれども出掛けに親先生が紫ムードだぞと、ね、安心ムードでいけよと言われたのをふと思い出したら、心に安心ができて、怖くなかったと言っておる。ね、
だからその状態がですね、私共の日頃の信心の姿でなからなければならない事なんです、ね。障子一重がままならぬ人の身であると言う事なんだ。だから障子一重向こうにある事がどの様な事か分からない。私その事をお取次ぎお取次ぎあの富永さんと、幹三郎のその話にある時聞かせて頂いておりましたらはあ、そうだなあと思わして頂いたら御心眼にね、夜叉の面をかぶっておる人がね。
取替えてお多福さんの面をかぶる。お多福さんの面をかぶったかと思うたら夜叉の面をかぶる。と言う所を繰り返し頂くんですよ。夜叉の面といや怖いと言う事だと、お多福さんの面といやにこにこしてしておると言う事なんだと。だからそのどっちであってもいけないので、怖いいわゆるお多福さんの、そのね両方が丁度一様になった時に、あの平生心というものが頂けるのだと。だからにこにこでもなからなければ怖い顔で、あの夜叉の面でもない事なんだ。
そのお多福さんと夜叉の面の中間の心の状態が平生心なのだとね。その所をです「放って置く様な気になって」というのはそう言う事なんです。だからおかげが受けられるんだと。それにはなら信心してやれとこういう、信心してやれと言う事がです、願うと言う事なんです。ね、お取次ぎ頂いとるから、どうにかなるだろうともうおかげになると、成程そう言う様な心の状態になれる事でもです。
お取次の働きであり、矢張りお取次ぎの作用ですよね。確かにそういうひとつの安心が頂けれる。けれどもそれだけではいけない。それではあまりもの事だと、ね。それはあまりにも、お取次ぎ依存と申しましょうかね。自分がそこに一生懸命の、言うなら自力と他力とでも申しましょうか。ね、自分がそこに一生懸命信心してやれと言う事ですから、普通取り組めない所に取り組んだり、一生懸命神様に向かわせて頂くという、信心してやれと仰るその信心がでけて、ね、生まれてくるもの。
ですからいわゆる怖い、怖い事と怖くないお多福さんと夜叉の面とが、交互にこうある。だからいつも低姿勢でおれるのだと言う事、信心さして頂く者は。心の中に不安がある心配がある、それを信心の修行でカバーすると言う事じゃない、カバーじゃないですね、その信心の修行によってです、それが所謂怖いとか不安というものがなくなっていく。そういう状態そういう姿が、私おかげを頂かれるのだと。いわゆる信心さして頂いて、安心のおかげを頂いておるというのはそう言う事だと私は思う、ね。
「わが子の病気でも可愛い可愛いと思うて、うろたえるといけぬぞ」と、ね、ここはどっこいひとつうろたえずに、ね、さあお取次ぎを頂けさあお参りして来い、ね、そこに例えば何を先にしてよいか分からない様なうろたえる事のない、ひとつの心がけというものが信心にはどうでも必要である、ね。そして言う事を聞かん時に、ままよと思うて放って置く様な気になって
(録音不良)。
ですから大体信心してやれと言う事が先なんだ。ね、その事によって、ね、神様すいませんと、ね、私が改まりますからと、私が修行さして頂きますからというその信心、ね。その信心ができる所に、ね、放って置く様な気が生まれてくる。夕べそのような御理解を皆さんに聞いて頂いて、で頂き終わってから土居の久富さんが、ここで先生今日の先生ところの幹三郎さんの事を、まあ御理解を頂かして貰いよります時にね、大きなのしを頂きました。あの、のしをつけてというのしなんですね。
今私共が申します、申して参りましたのは、私共が信心しておるからいつもこう、本当に信心頂いとるけん、まあ綾部さんの言葉を借りるならば、駆け込む所があると言う事がいつも自分の心を支えておる。所謂そういうバックボーンがあると言う事が、心がいつも安らいでおれれる。と言う事なんですけれども、だからそれを安心と思い間違えたら。
成程安心と慢心は紙一重であると言う事を分からしてもろうて、本当言うたらねもう日々がね、不安で不安でたまらないという。
その障子一重がままらぬ人の身であるという自覚に立って、だからこそ全ての事が縋らなければおられん、願わなければおられん、お取次ぎを頂かなければおられないと言う事になるのである。これから久留米までちょっとやらせて頂くでも。本当にお縋りして行かなければ不安である、お縋りをするから生まれてくるのが安心、それが本当の安心だと、ね。ですから私共がその信心しておるから安心のおかげを頂いておるというその安心をもう一遍検討してみて、今言ういわゆる平生心怖い心と、ね。
にこにこする心と夜叉の心と怖い心というものをです、がこう一応に平生を保たせて頂く時の心こそが平生心であり、安心のおかげを頂いておりますと言う事なのである。そこに願わなければおられん、縋らなければおられないそのね、そういう心で願う時にです、おかげになるというおかげがあるのです、約束されるのですね。そこでなら信心の一番の目指しというのはそれに大の字がつくと言う事なんです、大安心と言う事ね。これぎりぎりの問題。信心のもう最高の焦点だろうとこう思いますね。
大安心のおかげを目指しての信心。段々信心が分からして頂き、天地のご恩徳が分かり、天地の道理が分からしてもろうて、全て一切が神様のおかげを頂かなければできることではないし、また天地の親神様の御物であると言う事なんです。全てがね。石橋先生が教えておられますように、全てのものにのしをかけるという生活が本当の信心生活だと言うておられる。それはものとか金だけではない。
自分の命にでものしがいつもかけられてあると言う事なんです。ね、成程私はそれを久富さんのお取次をさして頂いてからね、ははあ成程、ね、全てにのしが掛けられたら、これはもう大安心だなあと私は思わしてもらいます。そうでしょうが、ね。なら例えばここに、わが子が病気で可愛い可愛いと思う事はない。もう子供にのしがかけてあるのですから。いつお引取りになってもお取り上げになっても文句が出らんのじゃなくてもう安心、神様にのしがかけてあるのだから。
自分の家蔵財産だって同じ事、ね、神様にのしが懸けてあるのであるから、それが例えば流れようが焼けようが、そこには不安というものはないだろうと。それを大安心の心と、そういう言わば大安心を目指さして頂く前に、いわゆる安心のおかげを頂かなければならなん。その安心というのは中々慢心とよく似ておる、安心と慢心は紙一重なのである。そこで果たして自分が頂いておる現在の安心というのは本当に安心であろうかと検討させて頂いて、これは慢心であったなと気がつく所から、ね。
いわゆる障子一重がままならぬ人の身の自覚に立たせて頂いてです、ね、不安心配、ね、または焦燥そう言う様な、言わば心の状態が、ね、信心してやれと仰るその信心してやる、いわゆる修行させてやれ修行してやれ、ね。お前が改まってやれ改まって修行させて頂いて神様に打ち向うて、ね。そこから生まれて来る所の不安と、言うなら安心とがね、信心の喜びとか喜びですね。
信心の喜びとがひとつになって、そこにそのいわゆる平生心ていうものが生まれてくる。私は昨日は一日そう言う様な状態の中にあったように思う、ね。嬉しい嬉しいちゅうてんなら、ひとつもその不安な事がないかというと決してそんなこっちゃない。けれどもまあ言うならば今こそ鎧兜付けとかなければならんと言った様な、私のまあ信心の状態の時ですから、ね、それがいつも平生心でおれたと言う事である、ね。
その平生心をなら今日の御理解の言葉で言うと、ね、嬉しゅう過ごせばと言う事になったのじゃなかろうかというふうに思うのです、ね。本当に自分たちの心の状態、言わば安心と思うておる安心をひとつ再検討させて頂いて、ね、本当の意味においての安心のおかげを頂きたい。同時に目指す所は大安心のおかげになからなければならんと言った様な事を思わして頂きましたですね。
どうぞ。